□□  退廃の館  □□

 

 

愛して欲しい。でもそう言えない。だから、言わずに行動する・愛す。でも、本当にそれでいいの?

 

 暗い屋敷の室内。
 散らかった子供部屋。
 干乾びた木々・・・。

 飛び去り忘れた黄色い鳥が、一羽静かに佇んでいる。
 幸せそうな明るい色は、光の届かぬ濃い影に入って、暗く歪んだ幸せを象徴しているよう。・・・いや、それは終わりを向かえ、破綻した幸せか。
 暗いが為ではない“影”が纏わりついているように見えた。

 二人の間に甘い言葉はない。ムツゴトもミツゲツも、何もない。
 あるのはただ、衝動だけ。
 うなされる。
 静かに冷たい相手が、あるはずのない熱を持って佇んでいる・・・・・・こちらを見ている。
 違う誰かの眼差しで持って、こちらを執拗以上に見つめてくる。
 おかしい。
 嘘だ。
 こんなのは・・・まやかしだ。
 否、不正だ。
 これこそが、歪み。イビツなものなのだ。
 正であって不でもある。それは、正であって不であるのだから、紛れも無い歪みとなる。
「ねえ・・・」
 落ちる、声。
「どうしたの・・・?」
 何の不審も持ち得ない、無垢な天使。堕ちた、天使。
「どうか、したの?」
 汚すのは自分。罪を負うのも、当然、自分。
「それとも・・・」
 ただし、堕ちるのは・・・両者だ。
「病気なの?」
 ああ、無知だ。無垢だ。
 これは何も知らぬ。知れどもわからないのだ・・・。

 月夜と月光。
 それはただ優しく、気遣い有りげに薄い光で照らす。
 月光は・・・儚げな眼差しに似ている。
 月光と同じ光を宿す二対の瞳が・・・目の前にある。
 潤み、半ば閉じかけているのは、己の所為。
 白い肌に蜻蛉のレース。
 影と月光の移ろいで、揺れるのは相手の髪の表情か己の心か。
 酷く、戸惑わされる。
 だって、揺れ動く、揺さ振りを受けるこの心が本心の気がしてきて・・・。
 狂わされてゆく・・・。
「眠いの?」
 ほら。
「それとも、帰りたいの?」
 こんな。
「それとも・・・」
 的外れで優しい言葉を。
「出たいの?」
 かけて・・・くれている・・・。
「ここから・・・?」
 月光が、一筋射す。
 半身を照らすそれは、しかし、酷くはっきりとした黒と白のコントラストを造り出した。
 ・・・眩暈がした。
「どう、」
 そこに降ってくる声。声、声、優しい、声・・・。
「したいの・・・?」
 降りかかる、それは甘い誘惑か。
「ねえ」
 暗がりからおびき寄せられる手負いの猛獣のような。
 普段無敗だからといって、見くびっていたツケを正面から受けてしまったような。
 見も心もボロボロになっているような。
 心底、心の中で怯えているような。
 空腹過ぎて胃がしぼんでしまった後のような。
 あがらえないくせに、酷く情けないような気持ちに、なる。
 優しさを与えられているようで、居心地が悪いくせに、もっと欲しいと望んでいる。
 もっとと、欲しいと言うこともままならない、高いだけのプライドがある所為で、近づくことも、遠のくことも、怖くて出来ないでいる。
 孤高とか。
 孤独だとか。
 所詮は同じだということを、痛感して知る。
 それでも施しなど要らぬと冷たく扱う。
 どうしようもない。
 これが、甘えだと知っているが、認められないでいるのだ。
 長年の積み重ねで形作られたプライドは、固く凝縮されていた。
 それは意地固になっていただけかもしれない。
 しかし。
 もう、自分ではどうしようもなかった事だけは、確かだった。
 柔らかい淡雪と、固く透んだ氷。
 同じ冷たいでも自分は溶けない氷だった。
 凍え切ってしまって、炎をも凍らせてしまうほどの冷たさの。
 差し伸べられた手は全て凍って、否、凍らせてしまった。
 溶けず、共に凍ってしまおう・・・と。
 淡雪は容易く氷になっていった。
 そして、零れる涙も氷へと・・・。
 目の前に一人の幻。
 幻は冷えることを知らず、凍えることも知らず。
 その手が冷え切っていることにさえ気づかないまま。
 ただ、手を差し出し続けている。 
 己の前を・・・自分をひた向きに見て。
 その手を取ろうともしない、近づけば牙を剥いて襲い掛かりそうな自分を。
 深く考えもせず。
 拒まれるかもしれないと、考えもせずに。
 手を取られる日を信じて、待っている・・・のだろうか?
 咽喉は唸り続けて枯れてしまった。
 心はかちこちに固まったまま。
 時は戻らぬ、事実は消えぬ。
 一度、犯してしまったこの罪は・・・消えることはないのだ・・・。
 その優しさに溺れてしまいたい。

 壊れた館。
 散々に散らかされた幼い子供部屋。
 倒された花瓶。
 草木の枯れ果てた、広大な廃園。
 中も外も退廃以外、何も見当たらない。
 くっきりと縁取った黒い影にその身を喰わせながら。
 仄白い月光を半身にのみ浴びて。
 白と黒しか見当たらない様な、この世界に。
 呪いという愛に、いや、愛という呪いだったか。
 もはや分からないが、無視できない何かに支配されて。
 居る。
 微動だにしないで。
 でも人形とは思えない強さのある眼差しを持って。
 居るのだ。
 それは何かを。
 待っているのだろうか。
 例えば、何を?
 転機を?
 誰かを?
 言葉を?
 変化を?
 ・・・。

 この世界には。
 白と黒しか、なかった。
 そして。
 彼と、自分しか居なかった。

 ・・・。
 気だるい太陽が昇る前に。
 包容力のある優しい月光が見守っていてくれている内に。
 この飢えが、頂点に達する前に・・・。
 否、これはいつも頂点で、いつも頂点には達しないのだ。
 どちらでもあり、どちらでもない、吊らされたような、そんな嫌な状態。
 視線を・・・合わせてみる。
 僅かに動かしただけの目には、相手の真っ直ぐな眼差しが。
 ・・・まさに、突き刺さる・・・。
 月光にも似て、ひどく優しく穏やかなくせに、生身の強さを併せ持っていて。
 それが心を・・・琴線を掻き乱す。
 調律の乱れた楽器をがむしゃらに掻き鳴らすような、そんな衝撃。
 そろり。
 そろりと。
 動き出したのは、心か身体か。
 引き寄せられる。
 この魔性の瞳の持ち主に。
 言い訳のような、最後の足掻きにそう思う。
 戯れ。
「どうしたの?」
 ゆるゆると伸びるその両手が。
 カチリと心を施錠する音が聞こえた。
 目の前にまで近づいたその顔が、口に含んでいた空気と一緒に笑みをこぼした。
 そのまま楽しそうに含み笑い。
 どうやら鍵を呑み込んでしまったようだ。
 見られているのに気づくと、おいしかったよ、と嘯いて目を細めた。
 笑み。
 笑み笑み、微笑み・・・。
 柔らかく、優しく、穏やかなのに。
 どこか・・・・・・。
 解せない。
 思っても、ついばむような口付けにそれも消し飛ぶ。
 何も知らない? これが?
 氷の手で触れると、冷え切ってはいなかった身体が笑うように震えた。
 声も音も、闇に呑まれそうだ。
 月光は、姿以外は隠してくれないと知っているためか。
 声も音も、いつもよりも密やかに、余韻が響く程度にだけ、空気を震わせてた。
 月が雲に隠され、辺りは闇に呑まれた。
 白い肌と白かったレースが目に焼きついた。
 この身は闇に呑まれようと、この心は既に目の前の彼に呑まれていた。
 可笑しい。
 笑みが洩れた。
 すると、間近で同じような笑みの気配。
 見えないが、吐息がかかるほどに、それは間近で。
 何かを感じ取ったのか。
 何を感じ取ったのか。
 ひどく、知りたくなる。気に掛かる・・・。
 これが暗闇でなければ、自分は少なからず動揺していたことだろう。
 怒鳴っていただろうか・・・。
 戸惑っていたか、恥じていたか、耐えていたか・・・。
 どんな行動にでたか、全く分からない・・・。
 それとも、取り乱し、でも、逆にいいようにあしらわれていただろうか。
 ・・・。
 暗闇の中・・・。
 静かな、でも心の中が愚かしくも動揺し、自分の心音で煩いくらいの暗闇の中。
 彼は、いつものように、心を、愛撫して、いた。
 内側からじゃれるように撫でさする。

・・・大丈夫だよ。もう安心して。気を張らなくてもいいよ。警戒しないで。怖くないから。信じていいんだよ。優しくしてあげるから。愛してあげる。本当の愛をあげるよ。怯えているの?心配しないで。裏切らないから。一生、あなたの傍に居てあげるから。ずっとずっと、永遠に。あなたの為に。あなたの為だけに。酷い事なんて絶対にしないから。言わないから。好きになってもいいよ、いいんだよ・・・?あなたを嫌わないから。見捨てないから。
 安心して。大事にしてあげるから・・・。

 次にはそっと心を抱きしめて・・・。

・・・安らかに眠りたいでしょう? 誰かと居たいでしょう? ひとりは嫌でしょう? 愛されたいでしょう? ぬくもりが欲しいでしょう? 優しくされたいでしょう? 守られたいでしょう? 嫌な事なんか、考えたくもないでしょう・・・? 誰かを、何かを信じていたいでしょう? 何かに縋り付きたいでしょう? 夢を見ていたいでしょう? 幸せになりたいでしょう? 幸せを味わいたいでしょう? 噛み締めたいでしょう・・・?

 ・・・。
 解放されたいでしょう?
 この苦しみから。
 知ってるんだよ、全部。
 ・・・。

  壊れた館。
  錆び付く蝶番。
  軋む、開け放しの古い窓。
  消え去った植物は砂に戻り、辺りは凹凸のない平坦がどこまでも続くようになった。

 時は戻らぬ。
 ・・・砂が降ってくる。
 世界は変わらぬ、けれど、病んでしまった。

 黄色い鳥が、身じろぎした。
 どこからか白い羽根が舞い落ちてきた。
 それに包まれたと思った瞬間、何も見えなくなった。

 闇が、支配する夜の時間。
 でも、腕にぬくもりを感じる。
 戸惑って身を引くと、吐息に混じった微かな囁きが耳に入った。

「ねえ、決心は、ついた?」

 雲が流れる。
 さっと月光が戻る。
 下には眠る、しかし、羽根のない天使の幻。
 囁きはまやかしだったのか?
 気のせいだったのか、聞き違いだったのだろうか・・・。
 ・・・そうに違いない、のだろうか。
 そう思えば思うほどに汗ばんでくる己の両手は、何かを知っているようで・・・いや、覚えているだけなのか。
 不思議とやるせなくなった。
 心が何かに対して焦っているのだ。
 でも、何に?
 断片的に分かっていて、断片的に分からない。
 結局分かっている僅かな部分は、それらだけでは存在できずに、意味のないものへと変質していくだけだった。

 眠る安らいだ顔に月光の悪戯でか、くっきりと残る黒い影。
 それは疲れを表しているようで・・・酷く罪悪感を刺激された。
 ありえない後悔。
 変わりに愛しさを微塵も感じられない。
 よく見るとそれは過去に生きていた天使だった。
 過去。
 生きていた・・・。
 ぬくもりも柔らかさも感じられない、偽りの甘美。
 月光が、去る。
 立ち込める目眩ましの靄。
 それは闇夜を反射して薄く紫に色付いて見えた。
 それが静かに、ゆっくりと、しかし、確実に室内へと侵入してくる。
 それはまるで、暗闇に喰われかけた侵食された月の様。
 雰囲気にか惚けるように見とれていたようだ。
 そうすると、どうしたことか。
 目の前で、抜け殻がその身を起こした。
 生身よりもなめらかな動作で。
 でも、それは余計な不審と不満を呼び起こすだけの効果しかなかった。
 ゆっくりと、その滑らかな人形はその目蓋を開けた。
「あ・・・」
 綺麗な声は、一瞬だけ不鮮明な雑音に聞こえた。
「あ、あれ? ・・・どうかしたの?」
 不思議そうな声。不思議そうな動作。
 まるで先を知っている映画を見ているような、奇妙な感覚を覚える。
 気持ちの悪い、違和感。
 それを見せつけるかのように、天使は思った通りに、ひどくゆっくりと首を傾げて見せた。
「ねえ」
 次には・・・嵐が来るのが何故かわかった。
 きっと。
 それは、きっと来るだろう。
 起こるであろう。起こるべくして。まるで偶然の顔をして。
「ねえってば」
 もう逆らう意志さえ奪われてしまったようだ。まだ半分眠っているような天使に手を伸ばす。
 ・・・それは、誘発された偽の自意識行動。
 その手を両手で受け止めた天使は己の頬にそれを押し当てると、どこか夢見心地に、おっとりと繰り返す。
「ねえ」
 声も頬も。甘く柔らかくて。
「何か、不満でもあるの?」
 ぬくもりを感じて止まない。それが不思議だと思うのだけど・・・。
 暖かいぬくもりの前では、柔らかい肌の前では、些細な事に変化していくだけだった・・・。
「どうなの?」
 不思議だから、知りたいから、だから訊いているのに、とばかりの声に言葉。
 ただの、興味。
 それだけであって、それ以上の意味などない。
 天使の無垢な声は、それを主張して止まない。疑いが喚起する。でも・・・。
「ねえ?」
 その問いに無言だけ返して、そっと抱き寄せた。
「なに?」
 戸惑いもない。
 為すがままに、されるがままになっている、天使。
 逆に、もっと束縛でもしようとするかのように、服を握り締める。
「いったい、どうしたというの?」
 華奢な肩を抱く。
「ひとりじゃ、寂しいの・・・?」
 そう問う自分の方が寂しくて堪らないとでも言うような震える声。
 答えずに頭を抱く。
「どうして答えてくれないの・・・?」
 その顔を己の胸に押し付けて、言葉を奪った。
 抵抗するように手が動き、服の上をよじ登って腕を開き、顔を腕から抜くと、再度、言葉を発した。
「戻りたいの?」
 唐突だった。
 しかし、その視線から逃れるためだけに、下を向いた。
「戻りたいんだね?」
 沈黙。
 それをどう取ったのか。
 悲しそうに納得した顔をして天使は再度呟く。
「戻りたいんでしょう? そうでしょう?」
 耳を、心の中で塞いだ。
「戻る? それとも、なかったことにする?」
 声が突き刺さる。
「全部、知ってるんだよ・・・?」
 悲しそうな声。
 痛々しい声。
 哀れみを酷く含んでいる声・・・。
「隠そうとしても、無駄なんだよ・・・?」
 古い傷口が一斉にぱっくりを口を開けたような、一瞬の衝撃。
 今更と知ってなお、痛み出す、古い、傷傷傷・・・。
 どこから現れたのか。どこまで痛み続けるのか。
 痛みは酷く。
 まだ、痛い・・・。
「まだ痛むの・・・?」
 これらの問いは、全て確認だ。なぞるだけに過ぎない。
 だって、彼は全てを知っているのだから。
 傷口は赤黒く、生生しいザクロのように変色していく。
 まだ痛い。
 まだ治ってはいないと訴えるかのように、それらは痛みを主張し出す。
 忘れるな、永遠に忘れさせないと共鳴するように。
 痛みは広がり強まっていく。
 そこに手が触れた。
 いつもなら優しく全てを癒すように愛撫していく手が、今回ばかりは嫌がらせのように纏わりついた。
 ひとつひとつ、傷口を撫でていく。
 痛みを呼び起こしているのだ。
 まだ痛むのか。
 まだ、感じるのか。
 まだ、悔いているのか・・・と。

 それらは全て、過去のもの。
 過去に起きた、既に起こってしまった、取り返しのつかない事。
 心に刻まれた傷は、普段は影も形もないくせに、いざとなったら一斉に、共謀して痛み出す。
 主張し出す。訴えてくる・・・。

まだ、許されてないぞ!!
まだ、終わっていないぞ!!
まだ、逃れられないぞ!!
この事実は、決して消えはしないぞ!!

 古傷は口を開けて絶叫する。
 全体でいつまでも塞がらない事を責めるように叫び立てる。


    ・・・誰がいったい悪いんだろうねぇ。
    ・・・誰が一番悪かったんだろうねぇ。
    ・・・誰が一番苦しんだんだろうねぇ。

 

 

囁く声は、果たして誰のものであったか。傍らの無知で無垢を主張する白い羽根なしの天使が微笑んだ。

 

退廃した 館には 巣立ちできなかった幸せと 隠蔽された罪が 眠っている ・・・