暗い屋敷の室内。
散らかった子供部屋。
干乾びた木々・・・。 飛び去り忘れた黄色い鳥が、一羽静かに佇んでいる。
幸せそうな明るい色は、光の届かぬ濃い影に入って、暗く歪んだ幸せを象徴しているよう。・・・いや、それは終わりを向かえ、破綻した幸せか。
暗いが為ではない“影”が纏わりついているように見えた。
二人の間に甘い言葉はない。ムツゴトもミツゲツも、何もない。
あるのはただ、衝動だけ。
うなされる。
静かに冷たい相手が、あるはずのない熱を持って佇んでいる・・・・・・こちらを見ている。
違う誰かの眼差しで持って、こちらを執拗以上に見つめてくる。
おかしい。
嘘だ。
こんなのは・・・まやかしだ。
否、不正だ。
これこそが、歪み。イビツなものなのだ。
正であって不でもある。それは、正であって不であるのだから、紛れも無い歪みとなる。
「ねえ・・・」
落ちる、声。
「どうしたの・・・?」
何の不審も持ち得ない、無垢な天使。堕ちた、天使。
「どうか、したの?」
汚すのは自分。罪を負うのも、当然、自分。
「それとも・・・」
ただし、堕ちるのは・・・両者だ。
「病気なの?」
ああ、無知だ。無垢だ。
これは何も知らぬ。知れどもわからないのだ・・・。
月夜と月光。
それはただ優しく、気遣い有りげに薄い光で照らす。
月光は・・・儚げな眼差しに似ている。
月光と同じ光を宿す二対の瞳が・・・目の前にある。
潤み、半ば閉じかけているのは、己の所為。
白い肌に蜻蛉のレース。
影と月光の移ろいで、揺れるのは相手の髪の表情か己の心か。
酷く、戸惑わされる。
だって、揺れ動く、揺さ振りを受けるこの心が本心の気がしてきて・・・。
狂わされてゆく・・・。
「眠いの?」
ほら。
「それとも、帰りたいの?」
こんな。
「それとも・・・」
的外れで優しい言葉を。
「出たいの?」
かけて・・・くれている・・・。
「ここから・・・?」
月光が、一筋射す。
半身を照らすそれは、しかし、酷くはっきりとした黒と白のコントラストを造り出した。
・・・眩暈がした。
「どう、」
そこに降ってくる声。声、声、優しい、声・・・。
「したいの・・・?」
降りかかる、それは甘い誘惑か。
「ねえ」
暗がりからおびき寄せられる手負いの猛獣のような。
普段無敗だからといって、見くびっていたツケを正面から受けてしまったような。
見も心もボロボロになっているような。
心底、心の中で怯えているような。
空腹過ぎて胃がしぼんでしまった後のような。
あがらえないくせに、酷く情けないような気持ちに、なる。
優しさを与えられているようで、居心地が悪いくせに、もっと欲しいと望んでいる。
もっとと、欲しいと言うこともままならない、高いだけのプライドがある所為で、近づくことも、遠のくことも、怖くて出来ないでいる。
孤高とか。
孤独だとか。
所詮は同じだということを、痛感して知る。
それでも施しなど要らぬと冷たく扱う。
どうしようもない。
これが、甘えだと知っているが、認められないでいるのだ。
長年の積み重ねで形作られたプライドは、固く凝縮されていた。
それは意地固になっていただけかもしれない。
しかし。
もう、自分ではどうしようもなかった事だけは、確かだった。
柔らかい淡雪と、固く透んだ氷。
同じ冷たいでも自分は溶けない氷だった。
凍え切ってしまって、炎をも凍らせてしまうほどの冷たさの。
差し伸べられた手は全て凍って、否、凍らせてしまった。
溶けず、共に凍ってしまおう・・・と。
淡雪は容易く氷になっていった。
そして、零れる涙も氷へと・・・。
目の前に一人の幻。
幻は冷えることを知らず、凍えることも知らず。
その手が冷え切っていることにさえ気づかないまま。
ただ、手を差し出し続けている。
己の前を・・・自分をひた向きに見て。
その手を取ろうともしない、近づけば牙を剥いて襲い掛かりそうな自分を。
深く考えもせず。
拒まれるかもしれないと、考えもせずに。
手を取られる日を信じて、待っている・・・のだろうか?
咽喉は唸り続けて枯れてしまった。
心はかちこちに固まったまま。
時は戻らぬ、事実は消えぬ。
一度、犯してしまったこの罪は・・・消えることはないのだ・・・。
その優しさに溺れてしまいたい。
壊れた館。
散々に散らかされた幼い子供部屋。
倒された花瓶。
草木の枯れ果てた、広大な廃園。
中も外も退廃以外、何も見当たらない。
くっきりと縁取った黒い影にその身を喰わせながら。
仄白い月光を半身にのみ浴びて。
白と黒しか見当たらない様な、この世界に。
呪いという愛に、いや、愛という呪いだったか。
もはや分からないが、無視できない何かに支配されて。
居る。
微動だにしないで。
でも人形とは思えない強さのある眼差しを持って。
居るのだ。
それは何かを。
待っているのだろうか。
例えば、何を?
転機を?
誰かを?
言葉を?
変化を?
・・・。
この世界には。
白と黒しか、なかった。
そして。
彼と、自分しか居なかった。
・・・。
気だるい太陽が昇る前に。
包容力のある優しい月光が見守っていてくれている内に。
この飢えが、頂点に達する前に・・・。
否、これはいつも頂点で、いつも頂点には達しないのだ。
どちらでもあり、どちらでもない、吊らされたような、そんな嫌な状態。
視線を・・・合わせてみる。
僅かに動かしただけの目には、相手の真っ直ぐな眼差しが。
・・・まさに、突き刺さる・・・。
月光にも似て、ひどく優しく穏やかなくせに、生身の強さを併せ持っていて。
それが心を・・・琴線を掻き乱す。
調律の乱れた楽器をがむしゃらに掻き鳴らすような、そんな衝撃。
そろり。
そろりと。
動き出したのは、心か身体か。
引き寄せられる。
この魔性の瞳の持ち主に。
言い訳のような、最後の足掻きにそう思う。
戯れ。
「どうしたの?」
ゆるゆると伸びるその両手が。
カチリと心を施錠する音が聞こえた。
目の前にまで近づいたその顔が、口に含んでいた空気と一緒に笑みをこぼした。
そのまま楽しそうに含み笑い。
どうやら鍵を呑み込んでしまったようだ。
見られているのに気づくと、おいしかったよ、と嘯いて目を細めた。
笑み。
笑み笑み、微笑み・・・。
柔らかく、優しく、穏やかなのに。
どこか・・・・・・。
解せない。
思っても、ついばむような口付けにそれも消し飛ぶ。
何も知らない? これが?
氷の手で触れると、冷え切ってはいなかった身体が笑うように震えた。
声も音も、闇に呑まれそうだ。
月光は、姿以外は隠してくれないと知っているためか。
声も音も、いつもよりも密やかに、余韻が響く程度にだけ、空気を震わせてた。
月が雲に隠され、辺りは闇に呑まれた。
白い肌と白かったレースが目に焼きついた。
この身は闇に呑まれようと、この心は既に目の前の彼に呑まれていた。
可笑しい。
笑みが洩れた。
すると、間近で同じような笑みの気配。
見えないが、吐息がかかるほどに、それは間近で。
何かを感じ取ったのか。
何を感じ取ったのか。
ひどく、知りたくなる。気に掛かる・・・。
これが暗闇でなければ、自分は少なからず動揺していたことだろう。
怒鳴っていただろうか・・・。
戸惑っていたか、恥じていたか、耐えていたか・・・。
どんな行動にでたか、全く分からない・・・。
それとも、取り乱し、でも、逆にいいようにあしらわれていただろうか。
・・・。
暗闇の中・・・。
静かな、でも心の中が愚かしくも動揺し、自分の心音で煩いくらいの暗闇の中。
彼は、いつものように、心を、愛撫して、いた。
内側からじゃれるように撫でさする。
・・・大丈夫だよ。もう安心して。気を張らなくてもいいよ。警戒しないで。怖くないから。信じていいんだよ。優しくしてあげるから。愛してあげる。本当の愛をあげるよ。怯えているの?心配しないで。裏切らないから。一生、あなたの傍に居てあげるから。ずっとずっと、永遠に。あなたの為に。あなたの為だけに。酷い事なんて絶対にしないから。言わないから。好きになってもいいよ、いいんだよ・・・?あなたを嫌わないから。見捨てないから。
安心して。大事にしてあげるから・・・。
次にはそっと心を抱きしめて・・・。
・・・安らかに眠りたいでしょう? 誰かと居たいでしょう? ひとりは嫌でしょう? 愛されたいでしょう? ぬくもりが欲しいでしょう? 優しくされたいでしょう? 守られたいでしょう? 嫌な事なんか、考えたくもないでしょう・・・? 誰かを、何かを信じていたいでしょう? 何かに縋り付きたいでしょう? 夢を見ていたいでしょう? 幸せになりたいでしょう? 幸せを味わいたいでしょう? 噛み締めたいでしょう・・・?
・・・。
解放されたいでしょう?
この苦しみから。
知ってるんだよ、全部。
・・・。
壊れた館。
錆び付く蝶番。
軋む、開け放しの古い窓。
消え去った植物は砂に戻り、辺りは凹凸のない平坦がどこまでも続くようになった。
時は戻らぬ。
・・・砂が降ってくる。
世界は変わらぬ、けれど、病んでしまった。
黄色い鳥が、身じろぎした。
どこからか白い羽根が舞い落ちてきた。
それに包まれたと思った瞬間、何も見えなくなった。
闇が、支配する夜の時間。
でも、腕にぬくもりを感じる。
戸惑って身を引くと、吐息に混じった微かな囁きが耳に入った。
「ねえ、決心は、ついた?」
雲が流れる。
さっと月光が戻る。
下には眠る、しかし、羽根のない天使の幻。
囁きはまやかしだったのか?
気のせいだったのか、聞き違いだったのだろうか・・・。
・・・そうに違いない、のだろうか。
そう思えば思うほどに汗ばんでくる己の両手は、何かを知っているようで・・・いや、覚えているだけなのか。
不思議とやるせなくなった。
心が何かに対して焦っているのだ。
でも、何に?
断片的に分かっていて、断片的に分からない。
結局分かっている僅かな部分は、それらだけでは存在できずに、意味のないものへと変質していくだけだった。
眠る安らいだ顔に月光の悪戯でか、くっきりと残る黒い影。
それは疲れを表しているようで・・・酷く罪悪感を刺激された。
ありえない後悔。
変わりに愛しさを微塵も感じられない。
よく見るとそれは過去に生きていた天使だった。
過去。
生きていた・・・。
ぬくもりも柔らかさも感じられない、偽りの甘美。
月光が、去る。
立ち込める目眩ましの靄。
それは闇夜を反射して薄く紫に色付いて見えた。
それが静かに、ゆっくりと、しかし、確実に室内へと侵入してくる。
それはまるで、暗闇に喰われかけた侵食された月の様。
雰囲気にか惚けるように見とれていたようだ。
そうすると、どうしたことか。
目の前で、抜け殻がその身を起こした。
生身よりもなめらかな動作で。
でも、それは余計な不審と不満を呼び起こすだけの効果しかなかった。
ゆっくりと、その滑らかな人形はその目蓋を開けた。
「あ・・・」
綺麗な声は、一瞬だけ不鮮明な雑音に聞こえた。
「あ、あれ? ・・・どうかしたの?」
不思議そうな声。不思議そうな動作。
まるで先を知っている映画を見ているような、奇妙な感覚を覚える。
気持ちの悪い、違和感。
それを見せつけるかのように、天使は思った通りに、ひどくゆっくりと首を傾げて見せた。
「ねえ」
次には・・・嵐が来るのが何故かわかった。
きっと。
それは、きっと来るだろう。
起こるであろう。起こるべくして。まるで偶然の顔をして。
「ねえってば」
もう逆らう意志さえ奪われてしまったようだ。まだ半分眠っているような天使に手を伸ばす。
・・・それは、誘発された偽の自意識行動。
その手を両手で受け止めた天使は己の頬にそれを押し当てると、どこか夢見心地に、おっとりと繰り返す。
「ねえ」
声も頬も。甘く柔らかくて。
「何か、不満でもあるの?」
ぬくもりを感じて止まない。それが不思議だと思うのだけど・・・。
暖かいぬくもりの前では、柔らかい肌の前では、些細な事に変化していくだけだった・・・。
「どうなの?」
不思議だから、知りたいから、だから訊いているのに、とばかりの声に言葉。
ただの、興味。
それだけであって、それ以上の意味などない。
天使の無垢な声は、それを主張して止まない。疑いが喚起する。でも・・・。
「ねえ?」
その問いに無言だけ返して、そっと抱き寄せた。
「なに?」
戸惑いもない。
為すがままに、されるがままになっている、天使。
逆に、もっと束縛でもしようとするかのように、服を握り締める。
「いったい、どうしたというの?」
華奢な肩を抱く。
「ひとりじゃ、寂しいの・・・?」
そう問う自分の方が寂しくて堪らないとでも言うような震える声。
答えずに頭を抱く。
「どうして答えてくれないの・・・?」
その顔を己の胸に押し付けて、言葉を奪った。
抵抗するように手が動き、服の上をよじ登って腕を開き、顔を腕から抜くと、再度、言葉を発した。
「戻りたいの?」
唐突だった。
しかし、その視線から逃れるためだけに、下を向いた。
「戻りたいんだね?」
沈黙。
それをどう取ったのか。
悲しそうに納得した顔をして天使は再度呟く。
「戻りたいんでしょう? そうでしょう?」
耳を、心の中で塞いだ。
「戻る? それとも、なかったことにする?」
声が突き刺さる。
「全部、知ってるんだよ・・・?」
悲しそうな声。
痛々しい声。
哀れみを酷く含んでいる声・・・。
「隠そうとしても、無駄なんだよ・・・?」
古い傷口が一斉にぱっくりを口を開けたような、一瞬の衝撃。
今更と知ってなお、痛み出す、古い、傷傷傷・・・。
どこから現れたのか。どこまで痛み続けるのか。
痛みは酷く。
まだ、痛い・・・。
「まだ痛むの・・・?」
これらの問いは、全て確認だ。なぞるだけに過ぎない。
だって、彼は全てを知っているのだから。
傷口は赤黒く、生生しいザクロのように変色していく。
まだ痛い。
まだ治ってはいないと訴えるかのように、それらは痛みを主張し出す。
忘れるな、永遠に忘れさせないと共鳴するように。
痛みは広がり強まっていく。
そこに手が触れた。
いつもなら優しく全てを癒すように愛撫していく手が、今回ばかりは嫌がらせのように纏わりついた。
ひとつひとつ、傷口を撫でていく。
痛みを呼び起こしているのだ。
まだ痛むのか。
まだ、感じるのか。
まだ、悔いているのか・・・と。
それらは全て、過去のもの。
過去に起きた、既に起こってしまった、取り返しのつかない事。
心に刻まれた傷は、普段は影も形もないくせに、いざとなったら一斉に、共謀して痛み出す。
主張し出す。訴えてくる・・・。
まだ、許されてないぞ!!
まだ、終わっていないぞ!!
まだ、逃れられないぞ!!
この事実は、決して消えはしないぞ!!
古傷は口を開けて絶叫する。
全体でいつまでも塞がらない事を責めるように叫び立てる。
・・・誰がいったい悪いんだろうねぇ。
・・・誰が一番悪かったんだろうねぇ。
・・・誰が一番苦しんだんだろうねぇ。
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